三聖地巡拝錬成 学習資料(2)


2、『金剛さまのご精神』




 三聖地巡拝錬成を単なる参拝だけの行事とせず、三聖地巡拝に込められた金剛さまの深い御信念と、参加させていただく私たちの心構えについて学習し、誇りを持って参加させていただきましょう。

金剛さまの熱意が御寺泉涌寺の参拝に

 解脱金剛尊者(以下=金剛さま)は昭和16年、伊勢神宮、橿原神宮、御寺泉涌寺への巡拝という解脱会の根本行事を始めました。


 しかし、それを実現するためには大きな壁を越える必要がありました。

 当時、泉涌寺は外部との交流が認められておらず、一般に対して拝観謝絶の姿勢を貫いていたからです。つまり伊勢神宮、橿原神宮には参拝できても、泉涌寺の参拝を行うことは常識的に考えれば不可能に近かったのです。

 しかし、金剛さまはあきらめることなく、何とか泉涌寺参拝の道を開きたいと、その方法を模索していました。

 そうした中で昭和14年に泉涌寺派の寺院の住職と知り合う機会を得、民間の護持団体「泉涌寺教会」に入会すれば諸法要に参加でき、その時に諸堂への参拝もできることを知りました。


 そこで金剛さまは早速、144名の会員と共に「泉涌寺教会」に入会する手続きを取り、この縁によって泉涌寺を訪問する機会を得、椋本龍海(むくもとりゅうかい)長老に面会して解脱会が単独で参拝することができないかと話し合いました。

 この時、結論は出ませんでしたが、椋本長老は慎重に検討することを約束し、その後、泉涌寺から参拝の許可がおりました。泉涌寺に単独参拝を行う道が開けたことにより、金剛さまは昭和16年4月1日、随行者6名と共に、東京本部を出発し、念願の第一回三聖地巡拝を挙行したのです。

 金剛さまは巡拝を終えるとすぐに第二回巡拝の計画を立て始め、約600名の参加者によって団体参拝を行う予定となりました。

 行程の問題点は、行きと帰りは夜行列車を使うとしても京都には一泊しなければならず、金剛さまは種々の考えを巡らせた末、ぜひとも泉涌寺の塔頭(たっちゅう)(本寺の境内にある小寺)に分宿させてもらいたいとの結論に達しましたが、それを実現することは至難の業で、この当時の常識からすれば不可能に近い事柄でした。

 けれども金剛さまは、何とかして塔頭に宿泊する道を開きたいと願って泉涌寺を訪問し、椋本長老と面談してお願いされました。ところが椋本長老は言下(げんか)にこれを拒絶されました。

 しかし金剛さまは初志をまげず『もし塔頭に泊めていただくことができなければ境内に筵(むしろ)を敷いて宿泊することをお許しいただきたい』と言われ、話し合いの結果、金剛さまの泉涌寺を護持されんとする誠意に打たれ、椋本長老は責任を一身に引き受ける覚悟で泉涌寺塔頭への宿泊を許可されたのです。金剛さまは椋本長老の決意に心から感謝され、ここに三聖地巡拝の基礎を打ち立てられたのでした。


 昭和17年、東京道場で行われた第二回の巡拝団出発式の際に、金剛さまは『この巡拝は日本国民を代表し、さらには世界五色人種を代表しての参拝である。時節はちょうど陽春(ようしゅん)の候、花に迎えられ、花に送られての巡拝なれば、真心の感謝は申すに及ばず、この光栄に選ばれた有難さを心にしっかりと持ち、お互い間違いなきよう大任(たいにん)を果たされよ。会長は諸君と一緒には行かれないが、この大任を果たして無事に帰京されんことを祈りつつお待ち申し上げる』との恩情あるお言葉を申されています。


 巡拝団を送られた金剛さまは、巡拝団が帰るまで夜もなお、服装をお召替(めしかえ)にならず、羽織袴(はおりはかま)のままで仮眠をとられ、側近の者が「お疲れになりますから」と何度申し上げても、巡拝に行っている者を思えばと、絶対にお聞き入れにならなかったのです。


 この意義ある三聖地巡拝を残された解脱金剛尊者のご精神を心に抱き、誇りを持って三聖地巡拝錬成に参加させていただきましょう。