青年の主張

令和元年5月度 神静ブロック青年講座にて

神奈川茅ヶ崎支部

内田 恵一郎

 神静ブロック書紀のお役目をいただいております。私はNTT東日本という電話やインターネットを提供する会社に勤めています。今日は私が入社8年目となる一昨年の10月から12月の3ヶ月に渡って、東日本大震災の被災地へNTTの復興工事の支援という形で東北復興推進室、通称復興室に行ったことに関する話しをしていきたいと思います。

 NTTの復興工事って具体的になに?と疑問に思う方もいると思います。まずはそれについて説明します。NTTの復興工事とは、被災した各自治体の復興工事の計画に合わせて電柱や通信ケーブル、地下設備などの新設や撤去、移設などすることです。簡単に説明すると震災後、応急処置で仮に道路や電柱を設置していたのを区画整備の計画に則って道路の本ルートを決めて、仮ルートから本ルートへ電柱やケーブルを移す工事になります。しかし、自治体によっては本ルートを作るための仮ルートを作るための仮ルート、というように3回、4回もしくはそれ以上の移転工事を行わなければならないものがあり、工事費用は5000万から、ものによっては1億を超えるものまでありました。

 私が行った東北復興推進室はこういった大規模な工事の各自治体との折衝や施工会社の管理・監督をしている部署になります。

 さて、実は私が被災地に赴くのは2回目になります。1回目は入社2年目、2011年8月、1週間という短い期間ではありましたが、被災地に行きました。派遣先は宮城県気仙沼市でした。このときは各お客様宅に新しくケーブルを引いて電話回線を復旧させる本当の復旧工事をするために行きました。震災から5ヶ月も経っていると津波で流された瓦礫なども道路上からは撤去され、でこぼこしているところはありましたが、車が十分走れる状態になっていました。ただ、道路以外の場所には潰れた車の残骸や鉄骨がむき出しの建物、倒れた電柱、船が残されており、津波の凄まじさ、大自然の恐ろしさを実感しました。しかし、同時に人間の強さと暖かさにも触れることができました。

 とある会社は1階部分が海に侵食されて水没してしまっている状況でも営業を再開しようと電話回線の復旧を申し込んできたのでした。全てが流されてしまった中でなんとか元の日常を取り戻そうとする人の強さを特に感じた体験です。

 また、私が支援にいった時期でも未だに流された電柱が建っていない地域があり、そこから電話を提供していた地域は復旧不可能地域でした。回線の復旧に来ているのに復旧できない、遣る瀬無さと申し訳無さでいっぱいの気持ちになりながら、電話が復旧できないことを説明するのは辛いことでしたが、あるお客様は私の着ている作業着の神奈川という文字を見て「神奈川から来たのか、遠くから来てくれてありがとう」と言ってお茶をくれました。回線を直したお客様からお茶やお菓子をもらうことは神奈川で仕事をしているときにもよくありましたが、直せなかったお客様からもらったのは、それが初めてでした。電話も電気も復旧してない状況、苦労もたくさんしている中で他人を思いやることができる暖かい心に本当に感動したのを今でも思い出します。

 その後、担当も変わり2017年2月に当時の課長から復興室に行ってくれないかと提案されました。私は行きたいと思いつつも当時やっていた業務が私と主査二人しか業務に携わっておらず、3ヶ月という長期間開けるのは難しいこと、また、今回行くのは前回のように工事をするわけではなく、工事管理が主な業務と聞き、まだ経験していない業務であったことから、逆に迷惑をかけてしまうのではないかという不安もあり断ってしまいました。しかし、主査からは「必ず良い経験になるから行って来い」と言っていただき、課長からは「内田ならどこに行っても通用するから大丈夫だ」と応援していただき、行くことを決心しました。

復興室に行く直前の9月23日に御五法修業をしました。下がられた御霊魂様から女川町や被災地の慰霊碑で天茶のご供養をして欲しいとお示しいただきました。実はこの時点ではまだ私が被災地のどの地域を担当するのかはわかっていませんでしたが、このときに私が担当する地域は女川町なのだなと悟りました。

 その後、宮城県女川町というのがどこなのかも知らなかった私は、復興室に行く前に女川町のどこに慰霊碑があるのか場所を調べました。調べた結果、女川町が建立した慰霊碑は一昨年時点では計画段階で、まだ無かったということがわかったのです。当時の女川町には献花台と共同墓地があるだけというのがわかり、とりあえずそこにご供養しに行けばいいのかと考え、復興室に行きました。

 復興室で教えてもらった私の担当エリアは案の定、女川町でした。そこは御修業通りで、やはり御修業は凄いなと思う反面、慰霊碑が無いというのはどういうことなのかと考えていました。そこで、女川町を担当していた人に慰霊碑は無いのかと聞いてみました。すると「ある」との回答をもらったのです。どういうことなのかと詳しく聞くと、女川町が建てた慰霊碑はまだ無いが、女川中学校が募金活動をして建てた慰霊碑があるとのことでした。

 その慰霊碑は「女川いのちの石碑」という名前で、ウィキペディアで調べたところ1000年先の命を守りたい、津波がここまで到達したということ、またこの石碑より高い場所へ逃げれば助かるということを後世へ伝えることを目的に建てられた石碑であり、この石碑は女川町で津波被害にあった21の浜それぞれに設置される予定で、6基が建立されているようでした。私はこの慰霊碑を回ってご供養をしようと思いました。

 具体的な場所を調べた結果、女川町は非常に広く、ウィキペディアに載っていた6箇所の中には今動いている工事と全く関係の無い場所にもあり、女川駅から徒歩で回れる距離でも無く、バスは1日午前午後の2本だけと全てを回るのは難しいと考えていました。しかし、工事の現場調査や現地立会で行った場所に不思議なことにウィキペディアに載っていなかった石碑を偶然見つけ、最終的にウィキペディアに載っている3箇所と偶然見つけた3箇所の計6箇所の石碑で手を合わせ、ご供養することができました。

 石碑の前で手を合わせると東日本大震災のニュースで流れた津波映像や復旧支援で行ったときの気仙沼市の情景が頭に思い浮かび、大自然の脅威と恐ろしさを7年ぶりに思い出し、また今の私が何事もなく平穏無事に過ごせていることに感謝の念が自然と溢れてきたのを覚えています。石碑の裏側を見るとその地域で犠牲になった方の名前が記載されており、安霊成仏し、女川町を守れる御霊魂になって下さいとご供養致しました。

 私は今回の御五法修業を通して改めて御五法修業の凄さを再確認しました。知らなかった石碑を見つけることが出来たというご縁をいただいたことは本当に不思議に思います。また、被災地では本当にいろいろな地域から人が来ていて、被災地を復興しようと頑張っている姿がよく見えました。ある打ち合わせのときには熊本や大阪、青森が出身の人などが同じ打ち合わせに参加し、それぞれがそれぞれの方言で話すものだから話しが全然わからなかったりといったことが起こりました。笑い話のようですが、本当に色々な人が日本全国から集まって復興工事をしているというのがよくわかる場面でした。

 被災地の復興はまだ終わってません。令和になっても東日本大震災の教訓を忘れず、被災地の復興を応援しましょう。ご清聴ありがとうございました。