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R1.5 九州南地区・キリシタン墓地の供養と南地区法友祭

 令和元年5月19日、早朝より雨がふっておりましたが、午前9時過ぎには雨もあがり、熊本県天草市にあります城山公園千人塚(※1)において南地区公的供養が開催されました。

 キリシタン戦没者の敵味方の霊魂に、南地区会員一同でまごころから天茶の撒き供養をさせていただき、戦没者の霊魂もお喜びいただいたと思っております。南地区では、熊本・田原坂、鹿児島・知覧、天草・キリシタン墓地と、毎年公的供養をさせていただいております。来年の開催場所は未定ですが、公的供養を継続していきたいと改めて感じた1日となりました。

 午後からは、会場を本渡南地区コミュニティセンターに移動し、南地区法友祭を開催しました。武田班長より、来年開催されます青年部三聖地巡拝錬成へ向けて、伊勢、橿原、御寺泉涌寺の各聖地の意義について説明があり、参拝への心構えを参加者一同改めて確認しました。その後、「ばあばあは、だいじょうぶ」の絵本の読み聞かせがあり、最後に大津支部の会員さんより、ジャンケン大会となぞなぞ大会がありました。南地区の会員一同、笑顔が絶えない1日を過ごすことができました。

(九州ブロック議長 若杉 修二 記)

※1

城山公園千人塚の合戦については、以下ホームページよりいきさつを引用いたします。

『寛永14年(1637年)に起こった島原の乱であるが、その発端は10月25日の島原藩内での代官殺害である。そしてそれに呼応するように、天草でも武装蜂起が起こる。それを先導するのは天草四郎時貞であり、島原藩と唐津藩(天草は当時唐津藩の飛び地の領地であった)の苛政に対する反乱のカリスマ的主導者とされた。

天草の一揆勢は11月14日に天草における唐津藩の拠点であった本渡に進軍し、ここで唐津藩と大規模な戦闘に入る。一揆軍は圧倒的な戦力で唐津藩軍を撃破、富岡城代だった三宅藤兵衛以下を殲滅させた(この戦いで近くの町山口川が死体で堰き止められたと言われる)。

この「本渡の戦い」での両軍の戦死者をまとめて祀ったものが、殉教戦千人塚である。この地は本戸城跡に作られた殉教公園にあり、島内各地にあった殉教碑を合祀したものである。』



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