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三聖地巡拝錬成 学習資料(4)


4、『橿原神宮』




 今日の日本国の基を作られた神武天皇の建国の理想と、建国以来、日本の国土を拓いてこられた先人の血と汗の努力を偲び、共存共栄と全世界の平和を祈り、日々の生活の中で、民族の伝統精神を尊びつつ報恩感謝の生活により、国家・社会に役立つ人材とならせていただくよう、日々精進させて頂きましょう。

【本殿・拝殿】 


 記紀(きき)(古事記・日本書紀)において初代天皇とされている神武(じんむ)天皇が国内を統一し、畝傍山(うねびやま)の東南・橿原(かしはら)の地に皇居を営んで、即位の礼をあげられました。


 明治の時代になり、天皇の御聖徳を景仰(けいこう)して、この橿原宮跡に神宮創建の請願(せいがん)が民間有志から起こり、これに深く感銘をうけた明治天皇の御聖慮により元京都御所の賢所(かしこどころ)と神嘉殿(しんかでん)を本殿と拝殿として下賜(かし)され、明治23年4月2日に官幣大社(かんぺいたいしゃ)・橿原神宮として御鎮座されました。


 第一代の天皇でありわが国の建国の始祖となられた神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛皇后(ひめたたらいすずひめこうごう)が祀(まつ)られています。

橿原神宮

 御鎮座:明治23年4月2日(126年前)


 神武天皇は皇孫(こうそん)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、この国土に降臨(こうりん)された日向(ひむかの)国(くに)高千穂(たかちほ)の宮(宮崎・鹿児島県)におられましたが、天壌(てんじょう)無窮(むきゅう)の神勅(しんちょく)を承(う)け、天下の政治(まつりごと)を行うべく東遷(とうせん)(神武東征)に立たれました。途中幾多もの困難に遭われましたが、大和の国を中心とした葦原(あしはらの)中国(なかつくに)を平定され、畝傍(うねび)の橿原において即位の礼をあげられ、国の基(もと)をたてられました。


 神武天皇は、高天原から地上に降りてこられた「瓊瓊杵尊」のひ孫にあたり、瓊瓊杵尊は伊勢神宮(内宮)に、お祀りされている天照(あまてらす)大御神(おおみかみ)の孫にあたります。


 初代天皇の神武天皇から数えて、今上(きんじょう)天皇(在位中の天皇陛下の呼称)は126代目にあたり、(125代天皇陛下の)即位の礼が行われた平成2年は、日本国の紀元で2650年にあたりました。また、令和2年は2680年にあたります。


 神武天皇は、国民を幸福に導き、正しい道に従って徳治(とくち)に努め、国内を一つにまとめ、皆が一つの家族のようになるよう大きく調和させてゆくことを建国の理想と記されています。


 神武天皇のいわれる日本の伝統精神は、『和』の精神であり国民すべてが幸せに暮らせるようにとの大きな願いが込められています。



 




【解説】

※橿原の とほつみおや


…橿原神宮に祀られている神武天皇


※宮柱 たてそめしより


…宮殿を建てはじめたその時から

※うごかず


…動揺していない





年中行事

■紀元祭(きげんさい)

 (2月11日)

 1年を通じて行われる祭典のうち、最も重要なお祭り。毎年、2月11日(現在の建国記念の日)に、勅使参向(ちょくしさんこう)のもとに行われ、御祭神の神武天皇が橿原宮で即位された古(いにしえ)を偲(しの)び、建国創業の御神徳を景仰(けいこう)する国民の祭典として盛大に執り行われます。

【紀元祭】

■神武天皇祭(じんむてんのうさい)

 (4月3日)

 神武天皇が崩御(ほうぎょ)された日にちなみ、その偉業を讃(たた)え祭事が執り行われます。

■新嘗祭(にいなめさい)

 (11月23日)

 天皇陛下が、神嘉殿(しんかでん)において新穀(しんこく)を皇祖(こうそ)はじめ神々にお供えになって、神恩(しんおん)を感謝された後、陛下自らもお召し上がりになる祭典です。

 橿原神宮では、御祭神と由縁深い「久米舞(くめまい)」が、奉賛祭(ほうさんさい)(4月29日)と新嘗祭(にいなめさい)に神前で奏(そう)されています。

【久米舞】

所在地

〒634-0063

 奈良県橿原市久米町934番地

TEL.0744-22-3271


橿原神宮の豆知識

 橿原宮造営の詔(みことのり)に「然後兼六合以開都。掩八紘而爲宇不亦可乎。《然(しか)して後(のち)、六合(くにのうち)(天地東西南北)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)〈八方〉を掩(おほ)ひて宇(いへ)〈大きな家〉と為(な)さんこと、亦(また)可(よ)からずや》」という一節があります。

 つまり、国中を一つにして都を開き、さらに天下に住む全てのものが、一つ屋根の下に大家族のように仲良く暮らせるようにすることは、何とよいことではないか、ということです。

 さらに「苟有利民。何妨聖造。《いやしくも民(おおみたから)に利あらば、何ぞ聖(ひじりの)造(わざ)に妨(たが)はむ》」という一節には、天皇は国民を宝のように大切に考えるという姿勢が表れています。以来、わが国では単なる力〈権力・武力・財力〉だけではなく、「徳をもって国を治める」という理想が受け継がれてきました。


【神武天皇】

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