top of page

青年の主張

平成30年5月度 東京ブロック青年講座にて

御徒町支部

 宮島 完侍

 ただいまご紹介に預かりました東京第6教区御徒町支部の宮島完侍と申します。この度、青年の主張のお役目を通し、自身を振り返る機会をいただき、ありがとうございます。テーマとして、「大学時代を振り返って今思うこと」を話させていただきたいと思います。よろしくお願いします。

 私は、子供の頃から人やテレビの影響を受けやすい人間で、特にドラマのテーマの職業を見ているとすぐにこの職業に就きたいと考えてしまう、良く言えば素直ですが、悪く言えば少し浅はかな考えだったと思います。そして、金八先生などの先生物ドラマを見て、熱く情熱を持った先生になりたいと感じ、その情熱を通じて、生徒の人生を変えたいと強く思いました。私は、小学校から算数、数学がずっと好きでしたので、大学では数学科に入学をし、将来は数学の先生になれればと思っていました。

 そんな中、自分が通っていた予備校で働くことになり、生徒と向き合いながらも自分も成長できる仕事にとてもやりがいを感じていました。ただのアルバイトですが、生徒と向き合うという将来やりたいことが出来ているという点も自分にとっては魅力の一つでした。その予備校は、授業は基本的に映像授業のため、私の主にやる事は担任助手という立場で生徒のモチベーションを高め、合格に導くという事でした。主に週に一回、担当生徒とグループ面談をし、生徒と一緒に予定を立てます。その際、自分の大学受験の経験や他の合格者の情報、記憶のメカニズムや自分が心に響いた言葉などを生徒に伝えたりと、やり方に答えがない分いろいろな事が出来たのでとても楽しかったです。特に、自分と同じ高校の生徒を持ったときは環境が同じだった分自分にしかできない方法でいろいろと工夫をしました。ただ、実際生徒と上手く仲良くなれても生徒がちゃんと努力してくれるとは限らず、馴れ合いのようになってしまっていると感じました。なぜ応えてくれないのだろうと相手の立場になって考えきれず、次第に生徒とちゃんと向き合おうという事も薄れてきました。また、生徒指導以外にもやる事があり、家に帰ってはパソコンでレジュメなどを作って、次の日起きられず学校に遅刻してしまったり、時には休んでしまうこともありました。今思えば、この時点で学業との両立が出来ていないとアルバイトを辞めれば良かったのですが、担当生徒という事で変な責任感があり、辞めることは出来ませんでした。

 ただ、状況は改善されず向き合うことに徐々に疲れを感じ、教員の夢もどうしようかと悩んでいました。大学で数学を専攻したのは教員になるためであるので、次第に何のために入ったのかわからず、勉強も疎かになり、最終的に留年をしてしまいました。ものすごい自分は弱い人間だと感じました。事の優先順位も考えず、ただがむしゃらになり、自己管理が全く出来ていませんでした。今思えば、そんな人間が生徒の人生を変えられる事はないと思いますし、逆に担当生徒がかわいそうだったと思います。そして、その事で両親、特に父にはものすごく悲しませてしました。留年の事を父に伝えた時は、「情けない、情けない」と連呼し、何かが抜けたような表情になったのが今でも忘れることが出来ません。長男であり、これから兄弟たちにしっかりとした所を見せていかないといけない所での出来事にとても申し訳なく思いました。その後、父に「ちゃんと学べないなら、やめた方が良い」と言われ、学費の事もあり、自分自身も大学を辞めようと思いました。ただ、将来の事を考えた時、この結果をどう次に繋げていけば良いか分からず、心の中では出来るなら「最後まで続けて卒業したい」と思っていました。

 そんな時、おばあちゃんが新聞奨学生というのを紹介してくれました。この制度は奨学金を貰う代わりに新聞配達員として働くというもので、幸運な事に大学を続けられるチャンスを頂きました。新聞の配達は週6日、深夜の1時30分ごろから早朝の6時ごろまであり、月末月初は集金と新聞業務中心の生活となりました。初めはとても大変でしたが、お米などの食品を送ってもらったり、両親やおじいちゃん、おばあちゃんにはいろいろな面でサポートしてもらい、なんとか慣れることが出来ました。これをきっかけに一人暮らしとなり、また仕事中も一人でしたので自分と向き合う時間が格段に増えました。自分はこれからどうしたいのか、何をしなければならないのか、いろいろな事を考える時間が出来、まず学業では入学して以来、一番良い成績を取る事が出来ました。また、プライベートでも友達と遊んだり、自分の趣味の時間にあてたり、解脱会行事に参加させていただいたりと留年してしまった以前よりも充実した時間を過ごすことが出来ました。

 そして、あっという間に2年が経ち、昨年から約1年間ニュージーランド(NZ)の方に留学させて頂きました。留学資金も、学費を稼ぐようになった事で捻出出来るというお運びになりました。留学に行こうと思ったのは、イギリスの歌手が大好きだったのと、将来日本の良さを世界に発信したいというものからでした。私自身、留学に行けると思ってもいなかったので、よい良いものにしようといろいろな事にチャレンジしました。オークランドマラソンに参加したり、大好きなポールマッカートニーのライブに行ったり、最後には2週間ほど車でNZを旅行し、横断する事ができ、そこで出会った人たちとは今でも連絡を取り合う仲になっています。留学生活では、英語はもちろん、他国の言語や文化、そしてその国の情勢なども学ばせていただき、日本に滞在しただけでは触れ合えない環境がありました。そして、留学をして一番良かったと思うことは自ら能動的に動かなくてはいけない環境があり、自分の周りの英語環境や仕事探し、家探し、そしてどうNZ生活をよい良いものにするかを考える中で、自分自身成長を感じられた事です。特に英語環境に関しては学校が4ヶ月で卒業となり、その後、郊外への引越しや友達も母国に帰ってしまった人が多く、コミュニケーションの場が減少していきました。ただ、そんな時にも目的を見失わず新たな交流を求めた結果、現地育ちの南アフリカ人と仲良くなる事ができ、そこからいろいろな交流ができました。その人は、年齢は30代半ばと私と離れてはいますが、本当にフレンドリーな人でよく飲みに誘ってもらい、2人でいろいろな話をしました。国や文化、年齢、その人のバックグラウンドなど私と全然違いますが、会話する上では全く関係なくフランクで対等な所が日本とは違う価値観であり、とても新鮮でした。

 現在は新聞奨学生を再開し、販売店は中央区の八丁堀にあるため、配達地域がかなり都会な分、前よりも大変だと感じています。また、同時に就職活動をしており、軸としましては将来日本の良さを商品や製品、サービスを通じて海外へと広めることがやりがいになると感じています。活動していく中で、上手くいかない事も多く両立をするのは本当に大変ですが、今が踏ん張り時だと思い、頑張っていきたいです。

大学時代を振り返る中で私自身、大きな失敗をしていまいましたが、その時チャンスをくれたおじいちゃん、おばあちゃんには本当に感謝しています。また、この期間支えて下さった家族、親戚、友達、支部長を始めとした支部の方、教区の皆さん、会の皆さん、会う度にいろいろな刺激を下さり、その事が大変な時期の支えとなったと感じています。ありがとうございます。そして、どんな状況でも腐らずやってこられたのは周りの方のサポートはもちろん、小さい頃から解脱のみ教えである「感謝」という考え方に触れてこられたからだと思います。大変はときこそ、周りのすべての環境に感謝させていただき、自分を客観視する事で「努力させてもらっている」ことに対しての感謝が全然足りないなと気づかされます。そして、この事が私の行動するエネルギーへ変わっているなと感じています。

 これから就職活動も続き、そして社会人生活と、楽しいこと、大変なこと、いろいろな事があると思いますが、この経験を活かし失敗を次に活かせる社会人になりないなと感じると同時に、将来父母、周りの人たちにしっかり恩返しできる人間でありたいと思います。

まとまらないですが、これで青年の主張とさせていただきます。


 

bottom of page